要旨
引っ越し費用が認められることはありますが、権利ではありません。住宅金融支援機構の任意売却パンフレット(令和8年4月)の売却予定価格・控除費用明細書には、控除費目の欄が六つあり、引越費用という名前の欄はありません。書くとすれば「その他」の欄で、機構との事前協議と審査を経ます。当てにせずに動ける形にしておくほうが、あとで困りません。
転居先の家賃と敷金を電卓に打ち込んでいる方から、売却の話が具体的になる前に聞かれる問いがあります。「引っ越し費用は出るのですか」。この問いには、たいてい「よそに出ていた記事にはそう書いてあった」という一言が続きます。同じ問いに、はっきり答えている一次情報があります。
本稿が扱うのは、任意売却で売却代金から引っ越し費用を差し引けるかどうか、その可否を誰が決めているかという一点です。独立行政法人住宅金融支援機構は、任意売却の手続と様式をまとめた「任意売却パンフレット」を公表しています1。全19ページ、本体の版表記は令和8年4月です。この中に、売却代金から差し引く費用を書き込む様式が一つ入っています。資料は2026年8月29日に確認しました。
見るのは三つです。その様式に何という名前の欄が並んでいるか。売却代金から差し引ける範囲を決めている条文はどこにあるか。そして、引っ越しの費用を読者がいつ数えておくべきか。先に一つだけ書いておきます。引越費用という名前の欄は、この様式に置かれていません。ただし、置かれていないことと、認められないことは同じではありません。
図1 控除費目の欄の並び。出典:住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」任売書式-9。並びは様式の記載順であり、認められやすさの順ではない。
1. 控除費用明細書に並んでいる六つの欄
住宅金融支援機構の「任意売却パンフレット」には、任売書式-1-1から任売書式-12までの様式が収められています。その9番目が「売却予定価格・控除費用明細書」です。様式のフッタには「(令和8年4月)」と印刷されています。売却予定価格(A)から控除金額合計(B)を引いた額が、機構と福祉医療機構への配分金額になる。様式は、この引き算の形で組まれています。
控除費目の欄は六つです。上から順に、不動産仲介手数料、抵当権抹消登記費用、滞納管理費・修繕積立金、後順位抵当権者に係る抵当権抹消応諾費用、差押債権者に係る差押解除応諾費用、そして「その他」。四つ目の欄の備考には「(ハンコ代)」と印刷されています2。現場の呼び名が、そのまま様式の活字になっています。
この六行のどこにも、引越費用という語はありません。パンフレット全19ページを通しても同じでした。「引越」「引っ越」「転居」「移転」「立退」のいずれの語も、本文と様式に置かれていません。併せて公表されている任売書式のエクセルにも見当たりませんでした(2026年8月29日確認)。
図2 様式が組まれている引き算の形。出典:住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」任売書式-9。金額の大小や割合を示す図ではない。
差し引ける額が増えれば、機構に渡る額はその分だけ減ります。様式が引き算の形になっているというのは、そういう意味です。控除は、費用を立て替えた誰かに払い戻す手続ではありません。債権者が受け取るはずだった金額を、先に別の用途へ回す判断です。
だから、この様式には添付書類の欄があります。「控除費用を疎明するための残高証明書・明細見積書等(写)」。申告するだけでは通らない形になっています3。金額の根拠を紙で出し、機構の審査を受ける。六行の欄は、その審査の入口です。
では、六番目の「その他」の欄は何のためにあるのか。ここに引越費用と書き込むことはできます。書けば、その額が控除金額合計(B)に加わり、機構への配分は減ります。パンフレット本体の4ページには、留意事項として次の一文が置かれています。「利害関係人への配分額や控除費用について、内容によっては承諾できない場合がありますので、当方と事前に協議願います。」
同じ4ページの注記は、承諾できる諸費用として「不動産仲介手数料、抹消登記費用、破産財団組入金など」を挙げています。末尾が「など」である以上、これは例示です。限定して並べたものではありません。だから本稿は、引っ越し費用が認められないとは書きません。認められる形があるとすれば、それは「その他」の欄と事前協議の先にあります。
図3 費目の置かれ方の違い。出典:住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」任売書式-9および本体4ページ。認められる確率の高低を示す図ではない。
機構は、任意売却の手続をウェブページ「融資住宅等の任意売却」でも案内しています(2026年4月1日更新)。申出書の提出から代金決済まで、八つの段階に分けて書かれています。仲介業者は「お客さま自らが」選ぶ、という書き方です。売る側が業者を選び、その業者が明細書を作って機構へ出す。控除の話は、この流れの中に置かれています。
ここに、読者の側の誤解が起きやすい場所があります。控除費用の明細を出すのは売主の側です。承諾するかどうかを決めるのは機構です。決めるのは、明細を書いた人ではありません。「引っ越し費用が出ます」と先に言い切れる立場の人は、この流れの中にいないことになります。
パンフレット本体の4ページには、任意売却を断念して競売手続に着手する事由も並んでいます。その一つが、「当方において売却予定価格及び控除費用の額を審査した結果、抵当権抹消に応じることができないと判断した場合」です。控除費用の額は、任意売却が続くかどうかの分かれ目にも関わります。額を大きく取ることが、そのまま得になるとは限りません。
2. 売却代金から差し引ける範囲を決めているもの
任意売却で売却代金を分けるとき、いちばん外側にある条文は民法369条1項です。抵当権者が何を持っているかを定めた規定で、任意売却という語はここに出てきません。それでも、差し引ける範囲の話はここから始まります。
民法369条1項(抵当権の内容)
抵当権者は、債務者又は第三者が占有を移転しないで債務の担保に供した不動産について、他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利を有する。
「他の債権者に先立って自己の債権の弁済を受ける権利」。売却代金から何かを差し引くというのは、この権利が届く金額を減らすことです。抵当権を消すには、抵当権者の側の協力が要ります。協力しない自由がある以上、控除の可否は交渉というより承諾の問題になります。当社が決められる事柄ではありません。
図4 控除をめぐる三者の位置。出典:民法369条1項、住宅金融支援機構「融資住宅等の任意売却」。当事者の力関係を表す図ではない。
六つの費目のうち、不動産仲介手数料は額の上限が外から与えられています。宅地建物取引業法46条1項は、媒介に関して受けることのできる報酬の額を国土交通大臣の定めるところによるとし、2項でその額を超えて報酬を受けてはならないと定めています4。3項は、大臣が定めたときは告示しなければならないとしています。上限が公になっている費目です。詳しくは媒介契約と報酬の上限に書きました。
抵当権抹消登記費用も、登録免許税という形で額の根拠を持ちます。滞納管理費・修繕積立金は、区分所有の建物で買主の側に承継される負担です。差押解除応諾費用は、差押えを解いてもらうために要る費用です。どれも、なぜその額なのかを紙で示せます。
引越費用には、それがありません。上限を定めた条文も、額を定めた告示もありません。様式に名前がある費目とない費目の差は、使う頻度の差ではなく、額の根拠が外側にあるかどうかの差です。「その他」の欄に書くというのは、根拠を自分の側で作って持ち込むという意味になります。
任意売却をやめて競売になった場合はどうか。売却代金の行き先を定めているのは民事執行法84条です。
民事執行法84条2項(売却代金の配当等の実施)
債権者が一人である場合又は債権者が二人以上であつて売却代金で各債権者の債権及び執行費用の全部を弁済することができる場合には、執行裁判所は、売却代金の交付計算書を作成して、債権者に弁済金を交付し、剰余金を債務者に交付する。
債権者に弁済金を交付し、剰余金を債務者に交付する。債務者の手元へ戻る枠は、この「剰余金」だけです。引っ越しの費用という名目で先に取り分ける仕組みは、条文に置かれていません。剰余金がいくらになるかは、配当の後にしか分かりません。詳しくは余ったお金は誰のものかに書きました。
手続に要った費用の扱いも、向きが逆です。民事執行法42条1項は、強制執行の費用で必要なものを債務者の負担とすると定めています。この規定は同法194条によって担保権の実行にも準用されます5。競売の手続では、債務者は差し引かれる側に立っています。
出ていく時期については、条文は費用ではなく期間の形で書いています。民事執行法83条は引渡命令の規定です。その2項が、申立てのできる期間を区切っています。
民事執行法83条2項(引渡命令)
買受人は、代金を納付した日から六月(買受けの時に民法第三百九十五条第一項に規定する抵当建物使用者が占有していた建物の買受人にあつては、九月)を経過したときは、前項の申立てをすることができない。
代金の納付から6か月。買受けの時に民法395条1項の抵当建物使用者が占有していた建物では9か月。数字が置かれているのは期間であって、費用ではありません。借りて住んでいる方の6か月については、民法395条の6か月と、その例外に書きました。
図5 差し引く枠の有無。出典:住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」任売書式-9、民事執行法84条2項。どちらが手元に多く残るかを示す図ではない。
ここまでで言えるのは次のことです。任意売却には、控除費用という名前の欄がある。競売には、その欄がない。だからといって、任意売却のほうが手元に残るとは限りません。欄があることと、そこに書いた額が通ることは別の話です。
3. 引っ越しの費用を、いつ、どこで数えるか
任売書式に振られた番号を順に並べると、控除費用の明細(9番)は、抵当権抹消応諾の申請(11-1番)より前に置かれています。番号の順が日程の順と必ずしも一致するとは限りませんが、控除の額を整理してから抹消の応諾を求める形にはなっています。額を後から足していく前提の様式ではありません。
図6 様式の番号順。出典:住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」任売書式-1-1から-12。実際の日程の間隔や所要日数を示す図ではない。
この順序は、読者の側の段取りに直接効きます。転居先が決まってから引越費用を数えるのでは、様式に書き込む順番と合いません。売り出す価格を確認する時期には、転居に要る現金の総額を自分の側で持っている必要があります。
私はこう考えています。引っ越し費用は、認めてもらうものとして数えるのではなく、自分で用意する前提でまず数える。認められたら、その分だけ前倒しで楽になる。認められなくても、家を出る日は来ます。順番を逆にすると、承諾が下りなかった時点で動けなくなります。これは体験の話ではなく、私の判断です。
数字の側から見ると、控除は債権者にとっての減額です。仮に引越費用20万円を認めてもらうとします。残債が1,000万円なら、機構へ渡る額は20万円少なくなり、回収額は2%下がります。ざっくりした計算ですが、頼んでいる中身はそういう形です。上限が告示で決まっている仲介手数料と、同じ一枚の様式に並べて審査されます。
だから当社は、金額の目安を書きません。出典のある数字がないためです。「一般に◯万円まで」と書けば読みやすくはなります。ただ、根拠のない数字を置くことになります。書けない数字は載せない、という線をここでも動かしません。
図7 費用を数えるときに手元で確かめる項目。出典:任売書式-9の添付書類欄。並びは確認の順序であり、控除が認められる条件を示すものではない。
今日できることを一つ挙げるなら、転居先に要る現金の総額を実額で出しておくことです。引越運送の見積もりを二社から取り、日付を控える。敷金・礼金・保証料を分けて書く。この三つが揃うと、「その他」の欄に書ける形の紙になります。承諾されるかどうかとは別に、家計の側でも要る数字です。
もう一つ、外から見えにくい点があります。任意売却の売却代金は、決済の日に一度で分かれます。仲介手数料も、抹消登記費用も、控除が認められた費用も、同じ日に同じ一枚の計算書の上で処理されます。引っ越しが決済より後になる場合、費用の支払いと転居の日付はずれます。控除が認められても、現金が先に要る場面は残ります。
売ったあとの住まいと窓口については売ったあとのことに、任意売却以外の手については任意売却以外の選択肢にまとめてあります。返済方法の変更や親族間売買が残っている段階なら、引っ越しの話はまだ先です。順番を飛ばさないほうが、選べる手は多く残ります。
正直に書くと、私にはまだ決めきれていないことがあります。様式に引越費用の欄を置かないことが、読者にとって良いのかどうかです。欄を置けば、出るのが当たり前だと読まれます。置かなければ、要る人にも届きません。機構が欄を置いていない理由は、公表資料に書かれていません。ここは推測で埋めずに、書かれていないと記しておきます。
先に申し上げること
当社は、引っ越し費用が控除されるかどうかを約束できません。承諾するのは債権者であり、当社ではありません。金額の目安も書きません。出典のある数字がないためです。当社は宅地建物取引業者として、売買の媒介と、売却条件・配分案の提示と調整を行います。債務の減免や法的整理の見通しは、当社が述べられる事柄ではありません。その段階のご相談は、提携する弁護士・司法書士におつなぎします
6。
小括
住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」(令和8年4月)の任売書式-9には、控除費目の欄が六つ並び、引越費用という名前の欄はありません。ただし本体4ページの注記は「不動産仲介手数料、抹消登記費用、破産財団組入金など」と例示で書いており、限定して並べたものではありません。だから本稿は、認められないとも言い切りません。言えていないことも書いておきます。本稿が読んだのは機構の資料だけで、他の債権者の様式は確認していません。
注
- 独立行政法人住宅金融支援機構「任意売却パンフレット」。実ファイルは19ページで、表紙に「令和8年4月」、ヘッダに「13-1」の表記がある。掲載ページ「融資住宅等の任意売却」は「20ページ」と案内しており、実ファイルの構成と細かくは一致しない。本稿は実ファイルの記載による(2026年8月29日確認)。↩
- 任売書式-9の四つ目の控除費目「後順位抵当権者に係る抵当権抹消応諾費用」の備考欄には「(ハンコ代)」と印刷され、抵当権者名・残債権額・応諾費用を3行に分けて書く形になっている。↩
- 任売書式-9の添付欄には「控除費用を疎明するための残高証明書・明細見積書等(写)」が置かれている。疎明を求める様式であるから、額の根拠になる紙が手元にあるかどうかが先に問われる。↩
- 宅地建物取引業法46条は、報酬の額を国土交通大臣の定めるところによるとし(1項)、その額を超えて報酬を受けてはならないとし(2項)、定めたときは告示しなければならないとする(3項)。4項は事務所ごとの掲示義務を置く。↩
- 民事執行法42条は強制執行の総則に置かれた規定であり、担保権の実行には同法194条によって準用される。なお同法188条は、担保不動産競売について前章第二節第一款第二目(81条を除く)を準用すると定めており、準用の入口が二か所に分かれている。↩
- 弁護士法72条は、報酬を得る目的で法律事件に関して法律事務を取り扱うことを、弁護士でない者に禁じている。当社は宅地建物取引業者として売買の媒介と売却条件の調整を行い、法律の判断を要する事項は提携する弁護士・司法書士におつなぎしている。↩
参考文献